田沼意次
”田沼意次”
小学校の時に習った田沼意次の印象は賄賂で私服を肥やす悪どい政治家だったが近年その評価が見直されている。
①商人から税を取る
特定の商人に対して営業許可証を発行し市場を独占させる代わりに税金(運上金、冥加金)を取る制度を確立します。これまで幕府は商人から税金を取ることはしていませんでしたので慣例を覆す改革となりました。
②通貨制度の統一
通貨制度の統一、東日本では「金」、西日本では「銀」というように同じ日本なのに通貨が異なっていました。そこで、田沼意次は通貨統一を目指す。
1765年に明和五匁銀を発行し、銀60匁を金1両という固定相場にすることを決めます。1772年、南鐐(なんりょう)二朱銀をオランダから輸入した地金で発行しました。こちらは、8枚で小判1両に換えると銀貨にしっかりと彫って明記し通貨流通、貨幣経済を促進。
③貿易黒字
当時、幕府は貿易を金銀の流出や外国文化が日本にもたらす悪影響を懸念して長崎の出島で、かつ消極的に行っていただけでしたので貿易赤字でしたが当時世界では中華料理がブームとなっていましたので、それに目をつけイリコ・フカヒレ・干しアワビなどを俵に詰めた物を俵物と呼び中華料理の食材を欧米に輸出し貿易黒字に転換させました。
④銀行?設立案
農作物が大凶作だったことはもちろん、東北地方の農村では飢餓で木の皮さえも食べ尽くし死んだ人間の肉も食べていたと記録が残っているほど、悲惨な状況でした。
1783年浅間山大噴火
この噴火による火砕流でムラが飲み込まれ死者がでた他に大量の火山灰は江戸、銚子にまで達し農作物の収穫に影響を与えました。
天明の大飢饉、浅間山の噴火により全国で2万人が餓死したと言われています。
さらに米商人による米の買い占めが横行し米価が暴騰し食料が不足している地域に行き渡らない状況が深刻化しました。
そんな中、田沼意次は貸金会所設立令を公布します。
これは幕府直営の金融機関で農民・町人・寺社・武士・大名から財産に応じて平等に金を集め飢餓で苦しんでいる藩に貸し付ける、また集めた財産は将来、利子をつけて返すという、いわゆる銀行のような仕組みのものでした。
しかし、のちに老中となる寛政の改革で有名な松平定信などは「幕府が直接、各藩の民から財産を徴収することは前代未聞」と強く反発されました。
まとめ
なぜワイロという印象が強いのか?
次の時代を担うことになる松平定信一派の田沼意次批判によるところが大きいようです。もともと江戸幕府はコメ中心の経済政策を行ってきましたが、田沼意次はコメから商業、経済など重商主義へ方向転換を行ってことなどが原因であると考えられています。実際、ワイロも多少はもらっていたでしょうからその部分だけイメージが大きくなってしまった。
しかし田沼意次が行った政策(日本銀行の設立、統一通貨、税金制度)は約100年後の明治時代に実現します。